北条義時の妻. は4人いたことになっています。
阿波局、姫の前、伊佐朝政の娘、伊賀の方の4人です。ドラマでは、3人として描かれそうです。
その妻たちと、北条家についてまとめてみました。
以下、ネタバレを含みます。
阿波局(ドラマでは八重)
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北条氏がまだ伊豆の一豪族だった時代に娶ったとされ、詳しいことは何もわかっていません。
ドラマでは、源頼朝の最初の妻・八重と描かれています。しかし、そもそも八重という人物がいたかもわかっていないのです。
阿波局と言えば、妹(ドラマでは実衣)も後年、阿波局と呼ばれていたので、混同しそうです。
吾妻鏡では「御所の女房」とされ、挙兵して3年ぐらいで結婚したようです。
阿波局が誰かはよくわかりませんが、子・北条泰時が生まれているということは、誰か知らが産んだことは間違いがありません。
北条泰時
当初は、北条氏嫡流の後継者は北条政範でした。そのため、義時は庶流・江間氏の当主です。泰時はその嫡男として、北条を補佐する役割だったようです。
しかし、牧氏事件が起こると、義時は父・時政を追放し、二代目執権となります。そして、北条氏の嫡流となるのです。泰時の子孫は、得宗家と呼ばれるようになります。
そして、義時が亡くなると、泰時は北条政子の指名もあり、三代目執権となるのでした。
姫の前(ドラマでは比奈)
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比企朝宗の娘。朝宗は、比企能員の義兄といわれています。
元々は、姫の前は、源頼朝の大倉御所に勤める女官だったようです。そして、頼朝のお気に入りで、たいへん美しく、並ぶ者のない権勢の女房だったと言われています。
そして、姫の前は義時の正室(正妻)とされていて、先に子供を産んでいた阿波局は継室(側室)の扱いです。
北条義時は1年あまりの間、姫の前に恋文を送っていましたが、姫の前は一向になびきませんでした。それを見かねた頼朝が、義時に「絶対に離縁致しません」という起請文を書かせて2人の間を取り持ったという逸話が残っています。
ドラマでは、比奈の方が思いを寄せていたように描かれていました。そして、曾我兄弟の仇討ちのあった駿河富士野での巻狩りで、仲を深めたように描かれていました。しかし、それはドラマの中の話しです。ただ、起請文を書いたというのは、ドラマの中にも出てきました。
北条義時との間に北条朝時、北条重時の2人の男子と1人の女子を産んでいます。
比企の変の後、離縁した姫の前は、歌人で公家の源具親と再婚したようです。
北条朝時
13歳で元服し、源実朝から一字をもらって朝時と名乗りました。
20歳の時に実朝の御台所(西八条禅尼)に仕える官女にラブレターを送ります。しかし、一向になびかないので、深夜に忍んで誘い出した事がバレてしまいます。それで、実朝の怒りを買って、父・義時から義絶(肉親の縁を切ること)されてしまいます。それで、1年ほど謹慎しました。
その後、和田合戦が起こると、鎌倉に呼び戻されて兄の泰時と一緒に戦います。勇猛な朝比奈義秀と戦って負傷するも活躍したことで、御家人として幕府に復帰しました。
兄・北条泰時とは、あまり交流がなかったようです。兄とは言え、継室の子の泰時と、正室の子・朝時では、自分の方が上だと思っていたのかもしれません。しかし、父・義時が亡くなると、伊賀の乱をへて、北条政子は泰時を三代執権にしました。
朝時は、祖父・時政の住んでいた名越の屋敷を与えられ、名越流と呼ばれるようになります。
泰時の死後、朝時らに不穏な動きがあったようですが、資料に残されていません。そして、その結果として、朝時は出家することになります。
その後、名越流は得宗家に常に反抗的で、朝時の嫡男光時をはじめ時幸・教時らが宮騒動、二月騒動でたびたび謀反を企てています。
北条重時
6歳の時に比企能員の変が起こります。
その後、元服しますが、いつ元服したか記録が残されていません。
父・義時が亡くなり、義兄・泰時が執権になった後、重時は六波羅探題(北方)に就任します。その後、泰時との関係は良好で、17年間六波羅の最高責任者となっています。
そして、泰時が亡くなった後も、得宗家を補佐する立ち位置は変わらず、良好な関係を続けました。
50歳の重時は、泰時の孫・時頼(五代目執権)の要請で、鎌倉へ戻ります。そして、叔父・北条時房の死後に空席となっていた連署に就任して、時頼を補佐しました。重時の長女・葛西殿は、時頼の正室となって、後の八代目執権になる北条時宗を産みました。
58歳で出家し引退します。引退後は、極楽寺に住んだことから、極楽寺流と呼ばれるようになりました。
伊佐朝政の娘
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この方がどんな方だったのか、資料が残っていないようです。
父・朝政の一族は、奥州征伐の功績で、伊達郡をもらい受け、伊達政宗でお馴染みの伊達氏の祖先です。
しかし、わかっているのは、一族のことだけです。朝政のことも、その娘のこともわかっていません。
ただ、子・北条有時を産んでいることはわかっています。
北条有時
北条重時の次に生まれた四男ですが、通称は六郎です。伊賀の方が産んだ2人の子を優先されていたようです。そして、義時の葬儀の際の序列は、弟政村、実泰より下位の最後尾に位置づけられていました。
承久の乱では、泰時に従って、京都へ進撃する軍勢に参加しました。
将軍の近習、鶴岡八幡宮奉幣使などを歴任し、42歳の時に評定衆に選抜されます。
2年後には病を理由に引退し、以降出仕することはありませんでした。
そんな有時は、地位や権力とは距離を置いた人だったようです。
有時が陸奥国の伊具郡を拝領したことから、伊具流と呼ばれます。
伊賀の方(ドラマではのえ)
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伊賀朝光の娘。伊賀氏は、元々は平安時代の貴族・藤原氏の流れをくむ一族です。祖先には、平将門と戦って功績があり、武家として平氏、源氏に次ぐ位置にあったようです。
その藤原氏が、伊賀守を拝命して、それから伊賀と名乗るようになりました。
北条義時の妻となった後、義時は二代目執権となります。伊賀氏は、義時の親戚として、活躍することになります。
子供に北条政村、北条実泰、北条時尚がいます。
義時の死後、政村を幕府執権に、娘婿の一条実雅を将軍に擁立しようとします。しかし、北条政子が政村の北条泰時を義時の後継者としたことにより失敗し、伊賀の方と光宗・実雅は流罪となります。これが「伊賀氏の変」です。
伊賀の方は政子の命によって伊豆北条へ配流となり、幽閉の身となりました。そして、その後亡くなったと思いますが、詳細は伝わっていません。
そもそも、、伊賀氏謀反の風聞については泰時が否定しています。そのため、伊賀氏の変は、鎌倉殿や北条氏の代替わりによる自らの影響力の低下を恐れた政子が、義時の後妻・伊賀の方の実家である伊賀氏を強引に潰すためにでっち上げた事件と言われいます。
北条政村
畠山重忠の乱で、重忠親子が討伐された日に誕生しました。政村の名前は、祖父・時政と烏帽子親の三浦義村から一字をもらって政村になったようです。
20歳の時に父義時が急逝します。伊賀氏の変が起こりますが、政村は兄・泰時の計らいで累は及びませんでした。政村はその後も、北条一門として執権となった兄泰時を支えています。
35歳で評定衆となり、翌年に筆頭となりました。そして、兄重時が出家し引退したため、兄に代わり52歳で連署となります。
幼年の得宗後継者北条時宗の中継ぎとして、六代目執権となっていた北条長時が病で出家しました。しかし、まだ時宗は14歳で若年だったため、60歳の政村が七代執権に就任します。
蒙古国書が到来すると、執権職を18歳の時宗に譲り、64歳の政村は再び連署として補佐、侍所別当も務めました。そして、69歳で亡くなりました。
子孫は、政村流と呼ばれています。
北条実泰
元服の際、烏帽子親である源実朝から一字を与えられて、実義を名乗たようです。
17歳の時に義時が急死し、伊賀氏の変が起こります。泰時の計らいによって、政村と同様に罰せられることはありませんでした。
実義は武蔵国六浦荘(現在の横浜市金沢区)に所領を与えられました。そして、泰時から一字もらい、実泰に改名します。
23歳で小侍所別当に就任しました。これは、兄である北条有時・政村を飛び越したもので、能力と共に泰時への忠実さが考慮されて起用されたようす。
しかし、実泰は伊賀氏の変以降の立場の不安定さもあってか、精神の安定を崩してしまいます。病により、家督を11歳の嫡男・実時に譲って27歳で出家することになりました。そして、56歳で亡くなります。
一族は、所領の金沢から、金沢流と呼ばれるようになります。
北条時尚
全く詳細がわからない人物です。
将軍の側近だったようですが、詳細は不明です。
最後に
北条義時の妻は、たくさんの女性がいました。ここに書いただけではなく、もしかしたらもっといた可能性もあります。
当時の人にとって、子供を得ることは一族を守るためには、必要なことだったのです。妻がたくさんいることで、争いも増えることになるのですが。
ドラマでも、八重→比奈ときて、ついにのえが登場します。
これからどうなるのか、楽しみです。