畠山重忠 鎌倉殿の13人(23) ネタバレあり

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畠山重忠. は武勇の誉れ高く、その清廉潔白な人柄で「坂東武士の鑑」と称された人物です。

その生涯と、ドラマでは描かれなかった逸話も含めて紹介します。

以下、ネタバレを含みます。

一族

畠山氏は坂東八平氏の一つである秩父氏の一族です。現在の埼玉県深谷市畠山に所領を持っていたことから、畠山を名乗ったようです。

父の重能は平治の乱で源義朝が敗死すると、平家に従います。その後、20年に亘り忠実な家人として、平氏に仕えました。

そのこともあって、源頼朝が挙兵した時には、平氏側として参戦しています。

三浦氏との諍い

源頼朝が以仁王の令旨を奉じて挙兵します。この時、父・重能しげよしが大番役で京に上っていました。そのため、領地にいた17歳の重忠が一族を率いることになります。

平家方として頼朝討伐に向かいました。頼朝は石橋山の戦いで大庭景親に大敗を喫して、すでに潰走していました。相模国まで来ていた畠山勢は、鎌倉の由比ヶ浜で頼朝と合流できずに引き返してきた三浦勢と遭遇して合戦となります。

その後、河越重頼、江戸重長の軍勢と合流した重忠は、三浦氏の本拠の衣笠城を攻めました。三浦一族は城を捨てて逃亡します。重忠は一人城に残った老齢の当主で、母方の祖父である三浦義明を討ち取ることになります。これを衣笠城合戦といいます。

逸話

和田義盛との関係

ドラマの中では、三浦一族の和田義盛と仲が悪いように描かれていました。これは、衣笠城合戦があったためです。討ち死にした三浦義明は、北畠重忠の祖父でしたが、和田義盛の父方の祖父でっもあります。二人はいとこ同士だったのした。

一ノ谷の戦い

一ノ谷の合戦鵯越ひよどりごえ逆落さかおとしで、「馬を損ねてはならじ」と馬を背負って岩場を駆け下ったと言われています。鎌倉時代、まだ馬は貴重なものだったことが、この話しでわかります。

恋ヶ窪

畠山重忠は、宿場町・国分寺の遊女である夙妻あさづま太夫と恋仲になりました。しかし、平家追討のため西国へと向かいました。このとき夙妻に横恋慕する男が、「重忠は討ち死にした」と嘘をつきます。すると、悲しんだ夙妻は姿見の池に身投げしてしまいました。この伝説は、東京都国分寺市の「恋ヶ窪」という地名の由来になったともいわれています。

静御前

義経の愛妾・静御前が頼朝の命で、鶴岡八幡宮で舞を披露したことがありました。そのとき、重忠は銅拍子を打って伴奏を務めています。

梶原景時

畠山重忠が地頭に任ぜられた伊勢国沼田御厨で、代官が狼藉をはたらいたことがありました。処分として、重忠の身柄は千葉胤正に預けられることになります。これを恥じた重忠は絶食します。頼朝は重忠の武勇を惜しみ赦免しました。

それだけでは終わりません。赦免された畠山重忠が一族とともに武蔵国の菅谷館へ戻ると、梶原景時がこれを怪しんで謀反の疑いありと讒言することがありました。結局は許されるのですが、梶原景時が悪者になる逸話のひとつです。

さかさ矢竹

畠山重忠が戦死する直前、「我が心、正しかればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と矢を地面に突き立てました。やがてこの矢は自然に根付き、毎年2本ずつ増えて茂り続けたという逸話があります。この矢は「さかさ矢竹」と呼ばれています。現在は、横浜市旭区にその由来が書かれた札が立てられています。

畠山重忠の乱

乱の発端

畠山重忠の息子の重保しげやす北条時政の娘婿である平賀ひらが朝雅ともまさと酒席で争うことがありました。その場は収まりましたが、牧の方はこれを恨んだといいます。そして、時政に重忠を討つよう求めました。

翌年、時政は息子の義時時房と畠山重忠の討伐について話し合います。しかし、息子の二人は「忠実で正直な重忠が謀反を起こす訳がない」と反対します。そして、牧の方から問い詰められて、討伐に同意てしまうのでした。同じく時政の娘婿の稲毛いなげ重成しげなりが御所に上がり、重忠謀反を訴えました。将軍実朝は、重忠討伐を命じることになります。

この稲毛重成ですが、亡き妻のために相模川に橋をかけた話しがあります。この橋の落成供養に出席した頼朝が、帰りの道中で落馬ました。あわせて考えると、頼朝が落馬したのも、北条時政が関与したのではないかと考えてしまいます。

戦闘

謀反人を成敗すると鎌倉は大きな騒ぎとなっていました。鎌倉にいた重保も、郎従3人とともに由比ヶ浜へ駆けつけます。すると、北条時政から指示を受けた三浦義村が佐久間太郎らに重保を取り囲ませました。重保は、自分が謀反人とされていることに気づきました。そして、奮戦しましたが、多勢に無勢で郎党共々殺害されることになりました。

この時、重忠は「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」との虚偽の連絡を受けていました。そして、130騎ほどを率いて菅谷館を出発し、鎌倉に向かいました。二俣川付近で、北条義時を大将軍とする数万騎が差し向けられたことを知ります。覚悟を決め、わずかな兵で踏みとどまって、義時の大軍を相手に奮戦しました。最後は、愛甲あいこう季隆すえたかに射られて討ち死にすることになります。享年42歳。

乱後

合戦後、義時は送られてきた重忠の首を見て、「謀反を企てることなんて嘘だった」「讒訴ざんそによって殺された」と、時政の所行を糾弾しました。

そして、三浦義村が重忠謀反を訴えた稲毛重成を成敗します。

人望のあった重忠を殺したことで、時政と牧の方は御家人たちから憎しみを受けることになりました。

背景

事件の背景には、武蔵武士団の首領である畠山氏と、武蔵守である朝雅と有力国武蔵の支配権を巡る衝突があったようです。また、時政の先妻の子・義時と、後妻の娘婿・朝雅の北条家内の対立もあったと考えられています。

ただ、北条時政と牧の方に畠山重忠を成敗するよう言われた場面、その後北条政子と義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化するための伏線ではないかとも言われています。義時は断った→しかし時政夫妻に逆らえず従った→やはり重忠謀反は嘘だった→仕方なく時政と牧の方を追放した。

乱の後

重忠旧領と畠山の名跡は、足利義兼の子・足利義純が継ぐことになります。義純は、重忠の未亡人(時政の娘)と婚姻します。これによって、元々関東八平氏だった畠山氏は、源姓になって存続することになります。なお、義純が婚姻した女性は時政の娘ではなく、重忠と時政の娘との間に生まれた女性であったとの説もあります。

最後に

畠山重忠に残された話は、どこまで本当かわかりません。後の、北条時政追放のために作り上げられたものの可能性があります。

とは言え、ドラマでは、誠実で真面目で、固い感じで描かれていて、好印象ですね。最近では髭もたくわえていて、より男前になった気がします。

しかし、滅亡はもうすぐそこ。問題の平賀朝雅も登場しました。もう、時代の流れは止まりません。

それにしても、平賀朝雅役の山中崇は、ちむどんどんでは東洋新聞のデスクです。同時期に全く違う役をやるのも大変ですね。

第33回「修善寺」の予告

楽しみです。

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