鎌倉殿の13人(3) いざ鎌倉

ドラマ映画・ドラマ
ドラマ



大河ドラマ 第8回「いざ鎌倉」までの情報をまとめてみました。

以降、ネタバレ含みます。

源氏と平氏のまとめはこちら↓

頼朝の挙兵

1179年、平清盛が後白河法皇を幽閉(院政の停止)します。

ドラマ中では、幽閉された後白河法皇が頼朝の夢枕に立って、挙兵を促します。

幽閉されたことによって、危機を感じた以仁王が平家追討の令旨を発します。

その令旨を持ってきたのが、源行家でした。

しかし、その以仁王は、源頼政と謀議を図りますが、すぐに平定されていまいます。

その後、後白河法皇の院宣を入手した頼朝は、挙兵に踏み切ります。



石橋山の戦い

1180年、挙兵した頼朝は 伊豆国目代・山木兼隆と定め、頼朝の命令で韮山にある目代屋敷を襲撃して討ち取った。

ドラマ中では、八重が山木兼隆が屋敷にいることを頼朝方に伝えるシーンもありました。

実際にあったかはわかりませんが、見事初戦を飾りました。

いざ鎌倉へと向かいます。

頼朝は、三浦氏と合流しようとしますが、雨が降ったことによって、合流できませんでした。

その時、大庭景親と伊東祐親率いる討伐軍と対峙することになってしまいます。

世に言う、石橋山の戦いです。

頼朝軍約300人に対して、大庭軍は3000人。

多勢に無勢。少数の頼朝軍は大敗し、山中に逃亡するのでした。

この時、北条宗時(義時の兄)が伊藤祐親の軍勢に囲まれ戦死しています。

山中に逃げ込んだ頼朝は、梶原景時に見つかりますが、梶原景時は頼朝を見逃します。

九死に一生を得た頼朝は、真鶴岬から船で安房(千葉県南部)へ脱出した。

上総介広常

頼朝は、房総に勢力を持つ上総介広常と千葉常胤に加勢を要請しました。

千葉常胤は、桓武平氏の流れですが昔から源氏の郎党でした。

同じく、上総介広常も平氏の流れです。上総介は役職で、平姓です。

この2人は、元々源氏の郎党として頼朝の父義朝の配下として平治の乱に参加しています。

ドラマでは、上総介広常の遅参を頼朝が咎めるという内容でした。

そう言ったことが文献に見られますが、実際には上総介広常と千葉常胤の両方共、源氏寄りだったと言われています。

2人共、平氏側から圧迫されていて、今の立場を保つためには源氏に味方するしかないと思っていたようです。

源義経

奥州で匿われていた、源義経が登場しました。

義経は、自分の配下を連れて、関東へ行こうとするところです。

匿っていた奥州藤原氏は、後三年の役で源義家(八幡太郎義家)と共に戦った藤原清衡が始祖です。

その3代目が藤原秀衡です。

当時は、源氏、平氏と並ぶ、3つ目の勢力が奥州藤原氏でした。

しかし、平氏が簡単に滅んでしまうことで、鎌倉時代の「三国志」になることはありませんでした。

後の世から見ると「簡単に」なのですが、頼朝自身も平氏が滅亡してしまうとは思っていなかったようです。

木曽義仲

頼朝が鎌倉に行くより先に、京に迫ったのが木曽(源)義仲です。

河内源氏の流れをくむ、信濃源氏で、頼朝の従兄弟にあたります。

義仲の兄は、以仁王の挙兵の際、源頼政と一緒に討ち死にしています。

その義仲は挙兵すると、北陸方面から京へ迫ります。

これは、頼朝や、甲斐の武田氏とぶつからないためだと言われています。

この時、義仲と頼朝はライバル関係にありますが、対平家としては協力関係にありました。



いざ鎌倉へ

安房に上陸して仲間を募り、上総、下総を経由し、武蔵の国へ。

現在の東京湾をぐるっと回ってくるイメージです。

そして、いざ鎌倉へ。

源平の戦いは、これからが本番です。

源氏が立ち上がったとは言え、平清盛は健在で、主力とはまだ戦っていません。

これからが楽しみです。

明日の予告はこちらから

タイトルとURLをコピーしました