鎌倉殿の13人(4) 13人は誰か&ネタバレあり-1

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源頼朝の死後、北条を中心とした13人の合議制の集団指導体制だった初期鎌倉幕府。

その13人を紹介していきたいと思います。

前回、鎌倉に居を定めた源頼朝。石橋山の戦いから2カ月かからず、復活しました。

前回までの状況↓

大河ドラマ 第8回「いざ鎌倉」までの情報をまとめてみました。以降、ネタバレ含みます。源氏と平氏のまとめはこちら↓https://xxxjikokutenxxx.com/?p=101https://xxxjikokutenxxx.com/?p=118頼朝の挙兵1179年、平清盛が後白河法皇を幽閉(院政の停止)します。ドラマ中では、幽閉された後白河法皇が頼朝の夢枕に立って、挙兵を促します。幽閉されたことによって、危機を感じた以仁王が平家追討の令旨を発します。その令旨を持ってきたのが、源行家でした。しかし、その以仁王は、源頼政と謀議を図りますが、すぐに平定されていまいます...
鎌倉殿の13人(3) いざ鎌倉 - 雑記所感

13人は以下の通り。

  1. 北条時政(坂東彌十郎)
  2. 北条義時(小栗旬)
  3. 梶原景時(中村獅童)
  4. 和田義盛(横田栄司)
  5. 比企能員(佐藤二朗)
  6. 三善康信(小林隆)
  7. 三浦義澄(佐藤B作)
  8. 大江広元(栗原英雄)
  9. 八田知家(市原隼人)
  10. 安達盛長(野添義弘)
  11. 中原親能
  12. 二階堂行政



1.北条時政(坂東彌十郎)

伊豆国の在地豪族。北条政子、北条義時の父。鎌倉幕府の初代執権。

ドラマ中では、「調子のいいオヤジ」「ダメ親父」として描かれています。

石橋山の戦いでは、相手を挑発するつもりが、大庭景親に逆に挑発され開戦したように描かれていました。

さらには、石橋山の敗戦後、武田信義に援軍を求めて行った際には、源頼朝から乗り換えようともしていました。

そのダメ親父感が、その後に引き起こす事件の伏線となっています。

頼朝挙兵時には、伊豆国目代山木兼隆を討ち取りますが、そのシーンはカッコよかったです。

その後にあった事件で「亀の前事件」があります。

源頼朝は愛妾・亀(あるいは亀の前)を伏見広綱の宅に置いて寵愛していたが、頼家出産後にこの事を継母の牧の方から知らされた政子は激怒し、牧宗親に命じて広綱宅を破壊するという事件を起こす。それに怒った頼朝は宗親を呼び出して叱責し、宗親の髻を切って辱めた。これを知った時政は舅の宗親への仕打ちに怒り、一族を率いて伊豆へ立ち退いた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%99%82%E6%94%BF

この事件で一旦は一線から退きましたが、また表舞台に出てきます。

源頼朝が死去すると、十三人の合議制に名を連ることとなります。

そして、源頼朝の死後の混乱の中で、時政は牧の方と共謀して平賀朝雅を新将軍として擁立しようとします。

阻止しようとする政子・義時と対立することになり、出家し伊豆国の北条へ隠居することになりました。

後妻の牧の方に振り回される形で、最後は隠居することとなりました。

2.北条義時(小栗旬)

北条時政の次男。北条政子の弟。得宗家2代当主。鎌倉幕府の第2代執権。

石橋山の戦いで兄・宗時が討ち死に後、実質的に北条の中心人物となります。

ドラマの中では、上総介広常を味方に引き入れる際にも同行していましたが、実際には時政と一緒に武田と交渉していたようです。

ただ、源頼朝に寵愛されたのは、ドラマも史実も一緒のようです。

しかし、頼朝が存命中は表立った働きは少なかったようです。ドラマではどう描かれるのでしょう?

源頼朝の死後、混乱する幕府のさまざまな事件を解決していきます。

そして、実朝死後、源氏直系が断絶した後、藤原頼経を4代将軍として迎え入ることとなります。

しかし、頼経は幼児だったため、政子が尼将軍として後見となって義時がこれを補佐して実務面を補うことで執権政治が確立します。

その時、幕府内の混乱を見た後鳥羽上皇は、義時討伐の宣旨を全国に発布し倒幕の兵を挙げます。

義時は、この乱(承久の乱)を平定することで、幕府を安定させることができました。

尚、義時の別称は「得宗」と呼ばれ、以後の北条氏の嫡流の呼び名の「得宗家」の元となります。

3.梶原景時(中村獅童)

梶原景時は大庭景親とともに、石橋山の戦いで頼朝軍を打ち破ります。

ドラマでも描かれましたが、敗走した頼朝を見つけますが、見逃すことによって助けました。

その後、大庭景親の元から去ると、頼朝軍に身を寄せることになります。

その景時は、弁舌が立ち、教養のあるため頼朝に信任されたようです。

そして、源義経の物語を描く上で、梶原景時は外せない人物です。

義経軍に従軍し、頼朝に讒言したことになっています。

しかし、実際には、義経の行動を問題視していたのは、景時だけでなかったようです。

そして、源頼朝の死後、頼家と有力御家人との対立が元で不祥事が続き、これを嘆いた結城朝光と景時が対立します。

その結果、逆に景時排斥を求める連判状が頼家に提出されて、景時は弁明せずに所領に退くことにしました。

その後、梶原景時は上洛する途中、駿河で在地の武士たちと戦闘になり、自害することになります。

以前は義経を陥れた悪人として描かれることが多かったのですが、実際は優れた官僚的な人物だったようです。

4.和田義盛(横田栄司)

和田氏は坂東八平氏の一つ三浦氏の支族です。所領の和田の荘から和田姓を名乗ったようです。

源頼朝の挙兵に参加し、上総介広常への使者になったりしています。

ドラマでは、源頼朝に「大願成就した暁には侍所の別当にして欲しい」と言うシーンがありました。

その通りに、鎌倉幕府では初代侍所別当となっています。

さらに、平氏との戦いでは、九州へ上陸し、源義経と挟み撃ちして平氏を滅ぼしました。

義盛は、弓の名手であり、武勇において御家人の尊敬を受ける人物でした。

しかし、侍所別当としては、職務に対して思慮に欠ける面があったと言われています。

和田合戦ではその単純さを北条義時に利用され、討伐される結果となりました。

5.比企能員(佐藤二朗)

比企能員の叔母である比企尼は源頼朝の乳母でした。能員の妻も源頼家の乳母になっています。

その関係もあって、源頼朝の信任厚い側近として仕えます。

娘の若狭局が頼家の側室となることで、外戚として権勢を振うことになります。

源頼朝の死後、源頼家が病床に伏した時に北条時政が頼家遺領分与を決定してしまいます。

これに不満を持った能員は、源頼家に実朝擁立を計る時政の謀反を訴え、頼家は時政追討を能員に命じます。

しかし、この密議を障子の影で立ち聞きしていた政子が時政に告げ、自宅である名越邸に呼び出します。

密議が漏れている事を知らない能員は、武装せず誅殺されることになります。



今後の展開

次回のあらすじ

やっと、源頼朝討伐軍(平氏)との戦い「富士川の戦い」です。

その後、源義経も合流し、平氏を追い詰めていきます。

楽しみですね!