安徳天皇と三種の神器 鎌倉殿の13人(9)

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安徳天皇 は、歴代天皇でも最も短命だった天皇で知られています。

その安徳天皇と三種の神器が、第14回「都の義仲」で都を離れました。

以下、ネタバレを含みます。

安徳天皇が都落ちした原因となった、木曽義仲↓

安徳天皇

生い立ち

安徳天皇は、1178年に生まれました。

翌年の1179年に後白河法皇が平清盛に幽閉され、更に翌年の1180年に源頼朝が挙兵します。

父は高倉天皇で、母は平清盛の娘の徳子(建礼門院)でした。

頼朝が挙兵した1180年の2歳になる前に、践祚され天皇となりました。

幼かった帝を補佐した(実権を握った)のが、平清盛です。

都落ち

木曾義仲が入京すると、安徳天皇は三種の神器を持って、平氏一門と一緒に都を離れます。

都が源氏の手に落ちたとしても、天皇を保護している方が官軍です。

さらに、三種の神器がなければ、天皇になることはできませんでした。

そのため、天皇だけでなく、三種の神器も持って行く必要がありました。

しかし、後鳥羽天皇は、後白河法皇の後ろ盾で、三種の神器がなくとも天皇になってしまいます。

のちに三種の神器は回収され事なきをえますが、一時は鎌倉時代に南北朝に分かれていてもおかしくない状況でした。

波の下の都

安徳天皇は、屋島の行宮(仮の御所)で2年ほど過ごします。

しかし、木曽義仲に変わって都に入った源頼朝軍(源範頼、義経)が、迫ります。

一ノ谷戦い、屋島の戦いで負けた平氏は、安徳天皇を連れ海上へ逃げます。

そして、壇ノ浦の戦いを迎えます。

平氏は敗れ、安徳天皇は二位の尼と一緒に入水します。まだ6歳でした。

この時、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じたと言われています。

三種の神器

八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)

神話では、「岩戸隠れの際に後に玉祖命が作り、天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられた」と伝わっています。

他の宝剣、宝鏡と違って、形代があるような話を聞きません。

そのため、古代から伝えられた宝玉そのものが、皇居にあるのではないかと思います。

八咫鏡(やたのかがみ)

八咫鏡は伊勢神宮にある御神体と、その御神体を象って作ったという皇居にある形代(神霊が依り憑く依り代)の2つがあると言われています。

神話では、「天孫降臨の際、天照大御神自身だと思って祀るようにとの神勅(宝鏡奉斎の神勅)が下された」と伝わっています。

草薙剣(くさなぎのつるぎ)

草薙の剣は、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも呼ばれています。

神話では、スサノオが出雲国でヤマタノオロチ(八岐大蛇)を退治した時に大蛇の尾から見つかった神剣」とされている。

その天叢雲剣は、ヤマトタケルが東国征伐に行く際に授けられました。

そして、敵の放った野火に囲まれ窮地に立った時に、天叢雲剣で草を薙ぎ払って難を逃れたといいます。

そこから、草薙の剣と呼ばれるようになったという伝説があります。

壇ノ浦の戦いでは、安徳天皇と一緒に三種の神器も海に沈みます。

しかし、三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保することができましたが、神剣は見つけることができませんでした。

ただ、天皇家が持っていたのは、八咫鏡と同様に「形代」だったという説があります。

最後に

次回は、第15回「足固めの儀式」です。

後白河法皇に平家追討を命じられた木曾義仲ですが、平氏も負けていません。

そんな時に、鎌倉から範頼・義経軍がやって

ただ、鎌倉も一枚岩ではありません。

さて、どうなるか、楽しみですね!

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