木曽義仲は、源氏の武将です。
木曽に住んでいたことから「木曽」と呼ばれていますが、源義仲が正しい名前です。
以降、紛らわしいので、木曽義仲で統一します。
ネタバレを含みます。
源頼朝との関係
木曽義仲の父・義賢は源頼朝の父・義朝の弟です。
そのため、木曽義仲と源頼朝はいとこの関係にあります。
ただ、二人の関係は、因縁があります。
父親同士(義賢と義朝)の対立で、義賢は、義朝の長男・義平に討たれます。
小さかった義仲は、家臣に匿われ、信濃国の木曽に隠れ住むことになります。
信濃と言えば善光寺ですが、下社の宮司である金刺盛澄に預けられていたという話しもあります。
木曽義仲の異母兄の仲家は、義賢の死後、源頼政の養子となっていました。
そういう訳で、義仲と頼朝は、仲の良い従兄弟という関係ではありませんでした。
以仁王との関係
以仁王の令旨で、全国の源氏に対して、平氏の討伐令が出されました。
その時に挙兵したのが、源頼政です。
先ほども書いたように頼政の養子になっていたのは、木曽義仲の兄の仲家でした。
頼政、仲家は以仁王と一緒に挙兵し、平氏に敗れ討ち死にしてしまいます。
木曽義仲は、その令旨で挙兵し、信濃から北陸方面に勢力を伸ばしていました。これは、武田氏や頼朝とぶつかることを避けたためと言われています。
そこに、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮が義仲に庇護を求めます。
木曽義仲は北陸の宮を擁護し、以仁王挙兵を継承する立場を明示します。
この北陸の宮との関係が、後に木曽義仲の立場に影響を与えることになります。
木曽義仲、京へ
源頼朝から追い払われた源行家が、木曽義仲を頼って身を寄せます(第13回「幼馴染の絆」で描かれました)。
このことが、頼朝と義仲の関係を悪化させることになります。
さらに、甲斐の武田信光が娘を義仲の嫡男・義高に嫁がせようとして断られた腹いせに、義仲が平氏と手を結んで頼朝を討とうとしていると讒言したことも描かれました。
しかし、実際は元々仲が良くなかった義仲と頼朝です。武田氏の讒言がなくとも、行家を保護したことで、関係は悪くなったのではないかと思います。
とにかく、武力衝突になりそうなところを嫡子・義高を人質として鎌倉に送る事で、頼朝との対立は一旦落ち着いたようです。
前年の飢饉の影響で、兵糧の確保をしようと北陸に進出してきた平氏。
その平氏と義仲が戦います。平氏は倶利伽羅峠の戦いで敗れ、その後も連敗します。
木曽義仲は、勝った勢いのまま周辺の兵を集め、京へ迫ります。
また、源行家が伊賀方面から兵を募って進攻し、安田義定ら他の源氏武将も都に迫ります。
その状況で、都の防衛を断念した平氏は安徳天皇とその異母弟・守貞親王を擁して西国へ逃れます。
尚、後白河法皇は比叡山に登って身を隠して助かりました。
京に入った木曽義仲は、源行家と並び参内し、京の治安維持を任されます。
皇位継承問題
安徳天皇が平氏と一緒に都落ちしたため、都に残っている高倉上皇の二人の皇子、三之宮か四之宮(後の後鳥羽天皇)のいずれかを擁立することになります。
しかし、木曽義仲は今度の大功は自らが推戴してきた北陸宮の力であり、また平氏の悪政がなければ以仁王が即位していたはずなので以仁王の系統こそが正統な皇統だと主張します。
北陸宮を即位させるよう比叡山の俊堯を介して朝廷に働きかけます。
ここで、北陸の宮が登場しました。
しかし、天皇の皇子が二人もいるのに、それを無視して王の子にすぎない北陸宮を即位させるという皇統を無視した提案を朝廷側は受け入れませんでした。
木曽の山奥で育ったため、京の政治や天皇の系統など、木曽義仲はわかっていなかったのです。
ただ、一般的に見ると、木曽義仲の発言は、おかしなものとは言えないと思います。
とは言え、伝統や格式を重んじる法皇や公卿達から総スカンを食らう形になりました。
平氏討伐へ
今日の治安維持がなかなかできなかった木曽義仲。
飢饉の影響と、木曽義仲達の大量の兵が京に入ったことで、食糧不足が起きていました。
兵は、腹がすけば略奪を行ってでも、食糧を確保しようとします。
さらに、義仲の軍勢だけでなく、途中で集めた兵もいたため、統率が取れませんでした。
そのため、後白河法皇は、木曽義仲を呼び出し、平氏討伐へ行くように言うのでした。
そんな時、源頼朝から後白河法皇へ書状が届きます。
それを見た法王は、頼朝に上洛するように促すのでした。
木曽義仲は、西国で苦戦を続けていました。
そんな時に義仲の耳に飛び込んできたのは、頼朝軍が数万の兵で上洛するとい噂でした。
驚いた木曽義仲は、平氏との戦いを切り上げ、帰京し後白河法皇へ激烈な抗議をします。
後白河法皇幽閉
木曽義仲の敵は、平氏ではなく頼朝に変わっていました。
源氏一族の会合では、源行家との意見の対立もあり、バラバラの状態となっていました。
その状況を見て、後白河法皇は木曽義仲を京都から放逐するため、戦力を集めていました。
後白河法皇は、延暦寺や園城寺の協力をとりつけ、義仲以外の源氏などを味方に引き入れました。
数的優位に立った後白河法皇は、義仲に対して平氏追討するよう命令するのでした。
そして、迫った頼朝の軍勢と戦うのであれば、謀反とみなすというのでした。
追い詰められた木曽義仲は、後白河法皇を襲撃します。
木曽義仲は、捕らえた後白河法皇を五条東洞院の摂政邸に幽閉します。
傀儡政権を樹立し、木曽義仲が征夷大将軍に任命され(任命するように命令し)、源頼朝軍と対決することになります。
木曽義仲の最期
源頼朝軍との決戦の前に、平氏との和睦や、後白河法皇を拉致して北陸へ行くことも考えます。
しかし、その処理が終わる前に、源範頼・義経率いる鎌倉軍との戦いが始まります。
木曽義仲は、京都での防衛をしようとしますが、法王幽閉や治安維持できなかったことなどから、協力する者はすくなく、宇治川の戦いで敗れます。
そして、戦いに敗れた木曽義仲は、数名の部下と共に落ち延びますが、近江国粟津でついに討ち死にします。
木曽義仲が戦死したとき嫡男・義高は頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいましたが、逃亡を図って討たれましたた。
また、巴御前については、存在はしていたようですが、物語に出てくるような活躍はしなかったようです。
今後の展開
鎌倉殿の13人は、第14回「都の義仲」です。
北陸の宮を擁して、平氏を打ち破り、京へ入ることが描かれるはずです。
そして、その先は、奇行ばかりの源義経が、ついに軍略の才能を披露するのではないかと思います。
源義経伝説 こちらも、読んでみて下さい。
楽しみですね!