守護と地頭 鎌倉殿の13人(14)

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守護と地頭 は、鎌倉時代に置かれた幕府の役職です。

教科書で習ってはいますが、大体の方は忘れていると思います。

物語との関連をしながら、再度見てみたいと思います。

鎌倉殿の13人の公式HP

対立する勢力・藤原秀衡

国司との違い

朝廷から任命される国司。

国司は、地方行政単位である国(今の都道府県のような区割り)を支配する行政官として朝廷から派遣されていました。

任期は6年(のちに4年)で、祭祀、行政、司法、軍事の長でした。そのため、赴任した国では絶大な権限を与えられていました。

国司は四等官の守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)に分類されます。

例えば、「三河守みかわのかみ」や「上総介かずさのすけ」などと呼ばれます。

その国の豪族たちは貢ぎ物をして、国司との関係を良好な関係にしておく必要がありました。また、派遣された国で子供を作り、土着する勢力になることもありました。

要するに、国司に任命されると、その国の税や貢ぎ物などで私的に蓄財できたのです。

しかし、鎌倉幕府が任命した「地頭」が登場してくることで、状況は変わります。

地頭が、徐々に国司の支配権を奪っていったのです。

守護の役割

守護は、国単位で設置された軍事指揮官・行政官です。元々は、追捕使という役割が守護の原型となっています。

後白河法皇が源頼朝に守護、地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていきました。

当時の主な任務は、在国の地頭の監督です。守護は、国に対して1人だけですが、地頭は複数人いました。

源頼朝が任命権を得た当初は、任命できるのは東国の国だけでした。それが全国に任命できるようになるのは、承久の乱以後のことです。

守護の役割が明確にされたのが「御成敗式目」です。

守護の役割は、「軍事、警察的な職務」と「大番役の指揮監督」に限定され、国司の職権である行政への関与や国衙領の支配を禁じられていました。

当初は、住み分けができていたのですが、どんどんと国司の仕事は形骸化していきます。

地頭の役割

地頭は、在地御家人の中から選ばれる役目でした。

その国の荘園や公領において、武力を持って軍事、警察、徴税権を執行しました。

鎌倉幕府と言えば、御恩と奉公です。御家人の所領支配を保証することを本領安堵ほんりょうあんどといい、新たに所領を与えることを新恩給与しんおんきゅうよというのは習ったと思います。

どちらも、地頭職へ任命することで御恩としていました。奉公は、地頭や守護の命令で幕府のために働くことを言います。

地頭は様々な理由をつけては荘園領主や国司への年貢を滞納したり横領するようになります。

そして、領主や国主と争いになると、毎年一定額の年貢納入や荘園の管理を請け負う地頭請じとううけを行うようになります。

そうやって、地頭は一定額の年貢の他は私的収入とすることができ、地方豪族として力をつけるようになります。

守護と地頭のその後

鎌倉時代や、室町時代の中盤までは、それなりに機能していた制度でした。

ただ、室町時代に守護の権力の強化がされたことで、地頭は幕府の御家人から、守護の部下となっていきました。

しかし、地方豪族(地頭だった勢力を含む)が力をつけると、豪族同士で争ったり、守護と争うようになります。そして、守護に代わり実質的に支配することを下剋上げこくじょうといいます。

例えば、織田信長は、尾張の守護の家老の部下の家柄です。守護から見れば陪臣ばいしん(部下の部下)です。

それが、戦いをする中で尾張一国を支配するようになります。ちなみに、信長は上総介という朝廷の役職を名乗っていました。

最後に

授業でなんとなく習った気になっていた守護と地頭ですが、物語を通して見るとわかりやすいです。

そして、「御恩と奉公」と「いざ鎌倉」なども、懐かしく思い出されます。

そんな中、鎌倉殿の13人は、奥州合戦へと進んでいきます。屋島の戦いから壇ノ浦の戦いが猛スピードで語られたので、どれぐらいの分量を取られるかわかりません。それでも、義経の死は描かれるはずです。

来週は「帰ってきた義経」です。

奥州合戦が終われば、権力闘争の幕開けです。

まだまだ先は長いですが、楽しみです。

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