富士川の戦いが描かれた 鎌倉殿の13人 第10回。
その時の状況について、説明していきたいと思います。
開戦前の状況
鎌倉に入った源頼朝たちは、関東を盤石なものにするように準備を開始します。
そして、豊島清元、葛西清重、足立遠元、河越重頼、江戸重長、畠山重忠などが合流してきます。
その中の畠山重忠などは、平氏側についていた武将です。
そして、甲斐で挙兵していた甲斐源氏の武田信義たちは、大庭景親の弟俣野景久と駿河国目代が安田義定らと波志田山にて交戦しています。
その後、武田信義たちは、駿河へ進出します。
畠山達が頼朝に合流したところや、武田が駿河の目代を倒したことなどは、ドラマでも描かれていました。
富士川の戦い
追討軍
源頼朝の挙兵を聞き、平清盛は追討軍を編成します。
ドラマでも描かれていましたが、吉日を選んでいたために出発が大幅に遅れています。
この遅れが、頼朝達に準備する時間を与えることになります。
そして、追討軍は進軍しながら諸国の武士をかき集めたことで7万騎の大軍となります。
ただこれは、平家物語で言う人数で、実際には飢饉の影響もあり数千人だったと言われています。
そして、士気はとても低かったようです。
武田軍
武田軍は、頼朝軍よりも先に駿河に入り、先述の通り目代を倒しています。
そして、追討軍に対して、挑戦状を送りつけます。
追討軍は、頼朝挙兵に対しての軍だと言われていますが、実は武田軍に対する追討軍だったという説もあります。
実際に、頼朝よりも先に駿河に到着し、先に陣をはったのも武田軍でした。
富士川の戦い
頼朝軍は、追討軍が駿河に入ったとの連絡がきて、鎌倉を出発します。
その頼朝軍に対抗するために大庭景親が出陣しますが、頼朝軍に阻まれて追討軍には参加できませんでした。
また、伊藤祐親も追討に参加しようとしますが、合流できずに捕まります。
追討軍側としては、大庭、伊東、駿河の平氏側の武士を組み込むことを考えていたようですが、これも誤算になってしまいました。
そして、東に武田、西に追討軍が布陣します。
追討軍側は、誤算もあり実際に二千程の兵だったようです。
両軍が対峙したその夜、平氏軍は突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま富士川の戦いは終結します。
ドラマで描かれたように「水鳥の羽音を夜襲だと思った」というのが通説です。
兵士を集められなかった追討軍側が、撤退したという説もあります。
ただ、その撤退の際に混乱はあったようです。
ドラマのようにワチャワチャしてはいなかったと思いますw
富士川の戦いの後
その後、頼朝軍は一旦鎌倉に戻ります。
ドラマでも描かれたように、兵糧の問題が大きかったようです。
さらに言えば、武田軍が駿河に先に侵入していて、そこを通過するのを躊躇したという話しもあります。
武田軍は、駿河から遠江へ進出して、領土を広げていきます。
ドラマのように、頼朝の家臣ではない武田に配慮したというのは、あったことだと思います。
そして、大庭景親は頼朝に降伏し、斬首されます。
また、伊藤祐親は、命は許されますが、自ら命を絶ったようです。
今後の展開
頼朝軍は、関東の敵対勢力の排除を始めます。
ドラマで描かれた佐竹氏の討伐や、他にも志田義広、足利忠綱なども討伐しています。
負けた平氏側は、清盛が自ら出て戦うと宣言していたのも描かれました。
そろそろ、信濃源氏の木曾義仲が出てくるころです。