牛若丸と名乗っていた幼少期。
源義経の伝説は、各地に残っています。
ドラマや戯曲、歌舞伎などの演目になっているいますが、改めて整理していきたいと思います。
牛若丸誕生
生まれから鞍馬山まで
父親は、源頼朝の父でもある源義朝です。
義朝は母親は違うものの9人の男子に恵まれ、源義経はその9番目の男子でした。
母親は常盤御前と呼ばれる、公家の九条院の雑仕女(使用人)でした。
同じ常盤御前を母とする兄弟が、今若丸(のちの阿野全成)と乙若丸(のちの義円)です。
牛若丸が1歳の時に平治の乱がおこり、義朝は謀反人となり敗死します。
そして、常盤御前と3人の子供たちは吉野へ逃げるものの、京へ戻ることになります。
2人の兄は出家して僧として、生きて行くことになります。
牛若丸は、7歳まで母が再嫁した公家の一条長成の元で生活します。
成長した牛若丸は、鞍馬寺に預けられ、遮那王と名乗ることになります。
生き延びれた理由
今の感覚で言うと、謀反人の子供を殺さないと、成人してから復讐される気がしてしまいます。
実際に、助けた頼朝や義経に、平氏は滅ぼされてしまうのです。
頼朝が助けられた理由が、平清盛の義母の池禅尼が「死んだ子に似ている」と言ったという話が残されています。
「亀の前事件」の中でも、源頼朝が乳母の比企の尼を大切に扱っていたことが描かれていました。
母、義母、乳母は、特に大事にされた時代でした。
牛若丸は、母親の常盤御前が絶世の美女であり、その妾にしたい平清盛が、命乞いを聞いたという話しが残っています。
しかし、この話は伝説の域を出ません。
この源氏と平氏の戦いがあった後、謀反人の子供も殺すことが当たり前になったのではないかと思います。
鞍馬山での修行
天狗との稽古
牛若丸は、鞍馬山に住む天狗に剣術を教えてもらったという伝説があります。
もちろん、伝説の域を出ない話しです。
ただ、天狗の起源は山伏という話しもあり、天狗ではなく山伏に鍛えられた可能性はあります。
山伏は、修験道の行者ですので、剣術を教えることはできなかったと思います。
しかし、各地を行き来していたことから、情報に精通し、身を守る術を知っていたのではないかと思います。
牛若丸の鍛錬を手伝い、さらには各地の情報を与えたのではないかと推測します。
兵法の勉強
京の一条堀川に住んだ、僧侶の身なりの陰陽師法師の鬼一法眼。
牛若丸がその娘と通じて、伝家の兵書『六韜』を盗み学んだという伝説が残されています。
ただ、この鬼一法眼は伝説上の人物です。
後年、平氏を滅ぼすほどの軍略の才能があった義経の兵法指南をした人として、創作されたものだと主ます。
鎌倉時代の寺は、今でいう大学のようなところで、知識の頂点となっていた場所でした。
兵法書があったかどうかはわかりませんが、それに近い物語や書物があったことが推測されます。
また、後に平泉に行くことになりますが、そこでの生活で兵法書を読む機会はあったと思います。
武蔵坊弁慶
牛若丸と五条大橋で対決し、負けて家来になったという伝説があります。
これは、後に比叡山の僧兵が義経をかばうことがあって、そこから着想を得て後付けで作られた伝説ではないかと言われています。
ただ、武蔵坊という名前は当時の資料にも出てきているため、伝説は別にして実在した人物であったようです。
牛若丸には、小さい頃は特に部下と呼べる人はいませんでした。
そのため、忠臣として武蔵坊を登場させたのだと思います。
奥州逃避行
元服
15歳になるころ、鞍馬寺で僧侶になることを拒否して、逃走します。
そして、近江の国の鏡の宿で、自ら元服したと伝えられています。
元服した遮那王は、義経と名前を改めました。
鎌倉時代には、元服するために「烏帽子親」と呼ばれる、後見人のもとで元服するのが習わしでした。
しかし、平家が我が世を謳歌していた時代です。
郎党も庇護してくれる人もいなかった源氏の遮那王は、一人で元服するしかなかったようです。
これから身を寄せる、藤原秀衡の元で元服してもいいような気はします。
ただ、元服すると大人として扱われます。
会ったこともない秀衡に舐められる訳にいかなかった義経が、子供ではなく大人として対峙したかったのかも知れません。
金売り吉次
義経が奥州(東北地方)の藤原氏の元に身を寄せるのは、「金売り吉次」が斡旋したという物語があります。
金売りとは、砂金の取引をしていた人のことです。
奥州は、砂金が取れました。その砂金や特産品を京へ運び、取引していた人ということでしょう。
吉次は、藤原秀衡の命で、鞍馬寺にいた義経を奥州へ逃がす手助けをしたことになっています。
しかし、これも伝説の域を出ません。
実際には、秀衡の舅で政治顧問であった藤原基成が、母である常盤御前の嫁いだ一条長成の従兄弟の子でした。
その伝をたどった可能性が高いとされています。
従兄弟の子と言うと、とても遠い存在な感じを受けますが、平氏の手が届かない奥州へ行くために探した伝手だったのかも知れません。
参陣
奥州に行った義経は、そこで22歳ぐらいまで、生活しています。
その7年ほどの間に、剣術や弓や乗馬の稽古をし、兵法書を含む勉強をしたのではないかと思います。
秀衡は、平家に対抗する源氏の子息ということで、大切に扱ったようです。
頼朝の挙兵
頼朝の挙兵を聞くと、義経は参陣するために奥州を後にします。
その時に付き従ったのは、与えられた兵20とも100と言われています。
奥州の兵力から見れば、極々少数だったのだと思います。
頼朝との再会は、富士川の戦いで勝利した後、黄瀬川の陣での対面となりました。
この辺のことはドラマでも描かれていました。
細かな会話の内容などは脚色されていますが、涙の再会だったようです。
頼朝も流人で、従う東国武士は、信用できるかわかりませんでした。
そういう意味で、母は違うものの兄弟の存在は心強かったのではないでしょうか?
墨俣川の戦い
ドラマの「許されざる嘘」の回で、義円を疎ましく思った義経が、嘘をついて源行家に合流させたように描かれていました。
しかし、実際には、義円は頼朝に会っていないようです。
行家に合流し、そのまま行家と一緒に戦ったというのが、本当のようです。
ドラマでは、義経と頼朝の確執を繰り返し描くことで、これからの物語を描きやすくしたのではないかと思います。
亀の前事件
亀の前(ドラマ内では亀)が頼朝に寵愛を受け、その存在を知った政子が住んでいた伏見広綱の館を打ち壊したという事件です。
その後、打ち壊した北条時政の妻・牧の方の兄・牧宗親の髻(髪のまとめている部分)を切って辱めた。
その行いに起こった北条時政は、一族を率いて伊豆へと無断で帰ってしまう。
という話しです。
ドラマでは、梶原景時が髻を切っていましたし、牧宗親は兄ではなく父となっています。
さらに、三浦義村が逃がしたことになっていましたが、同じ三浦でも一族の大多和義久に匿われていました。
さらに、打ち壊した際、義経が手助けしたように描かれていました。
しかし、この亀の前事件では、義経が関与していないようです。
これも、頼朝と義経の確執を描くために、義経を関与させたのではないかと思います。
今後の展開
今後、木曾義仲が登場してきます。
木曾義仲の父親は、源義朝の弟になります。頼朝とは従兄弟の関係です。
源義経が活躍するのは、その義仲の活躍した後になります。
まだまだ義経の伝説はありますが、また今度書きたいと思います。