壇ノ浦 の戦いまで、もう少しとなりました。
上総介広常を亡き者にした第11回「足固めの儀式」。
そして、先に出発していた義経の伝説的な戦が始まります。
その源義経の伝説の続きを紹介したいと思います。
以下、ネタバレを含みます。
宇治川の戦い
源義仲が京へ入り、後白河法皇から平家討伐を命令されます。
義仲は、備中国水島の戦いで平家軍に大敗してしまいます。
そんな義仲を見限った後白河法皇は、源頼朝に東海道・東山道の支配を認める院宣を下します。
その院宣に激怒した義仲は、後白河法皇を幽閉し征夷大将軍に任ぜられます。
義仲は平家と和睦をしようとしたようですが、平家に拒絶されてしまいます。
そして、出発していた源範頼・義経は、京都の宇治川で義仲軍とぶつかります。
義経は、「先に敵陣に攻め入った勇気のある者は、頼朝に報告する」と言い、配下の武士達は先を争って宇治川を渡ったと言います。(宇治川の先陣)
その恩賞がきいたのか、範頼・義経軍は敵陣に攻め入り、義仲を滅ぼすことになります。
一ノ谷の戦い
平家の立て直し
源氏同士の争いの間に平家は勢力を立て直したます。
かつて平清盛が都を計画した福原まで進出してきます。
そして、平氏は瀬戸内海を制圧し、中国、四国、九州を支配する状況です。
兵力は、数万騎を擁するまでに回復していたようです。
回復した兵力をもって、京奪回の軍を起こすことを予定をしていたといいます。
鵯越の逆落とし
しかし、源義経軍は、福原を守備していた平家の軍を打ち破ります。
その時、福原で清盛の法要を営んでいた平家へ、後白河法皇からの使者が訪れて、和平を勧告したという話しがあります。
平家がそれを信じたところに義経の軍勢がやってきて、平家を打ち破ったという話しが伝わっています。
そして、義経は平家を追い詰め、少数の騎馬隊だけを引き連れて崖の上に上ります。
その険しい崖の上から馬でかけ下り、平氏の陣地に攻め入ることで、平家を海上へ追い落としました。(鵯越えの逆落し)
この戦いで、平家は有力な武将を多く戦死させてしまいます。
屋島の戦い
一ノ谷の合戦後
一ノ谷の戦い後、源範頼は九州方面へ出陣します。
源義経は、京都の治安維持を担当していました。
この頃から、後白河法皇と義経の関係ができています。
畿内の平家の騒乱を片付け、水軍を味方につけた義経は、平家討伐へ出陣します。
逆櫓論議
義経は出航するにあたり、戦奉行の梶原景時と軍議を持ちます。
景時は船の進退を自由にするために逆櫓を付けようと提案しましたが、義経は拒否します。(逆櫓論争)
この論争があったために、梶原景時は頼朝に義経を貶めるような手紙を書いたといいます。
しかし、実際には景時は範頼軍にいたようなので、物語として作られたもののようです。
奇襲
義経は出港を命じますが、暴風雨のために船頭らは恐れて出港を拒みました。
しかし、義経は郎党に命じて弓で船頭を脅して、出港を強行します。
勝浦に上陸した義経は、在地の武士を味方につけ、屋島の平家軍は手薄であるとの情報を手に入れます。
その情報を得て徹夜で讃岐国へ進撃して、屋島の対岸に到着します。
そして、干潮時には騎馬で島へ渡れることを知った義経は、奇襲することを決意します。
ただ、兵が少ないことを悟られないために、義経は周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけます。
海上からの攻撃のみを予想していた平家軍は狼狽し、檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出しました。
那須与一
奇襲が成功した後、竿に扇を掲げた平氏の小船が近づいて来ます。
そこで、源氏の武士で弓の名手の那須与一が、馬に乗って海に入り、見事に扇を射落とし名をあげたと言う話があります。
最初は、畠山重忠に命じたようです。しかし、的を射抜けなければ、士気にかかわる問題です。
重忠は辞退して、那須与一の出番となりました。那須与一は、失敗したら腹を切る覚悟で臨んだと伝わっています。
壇ノ浦 の戦い
屋島の戦いで勝利した義経は、平家を下関の彦島に追い詰めました。壇ノ浦 の戦いの始まりです。
海戦を得意とする平氏は、追い潮に乗って矢を射かけ当初優勢でした。
しかし、そのうち潮流が反転して、今度は源氏が追い潮となり形勢が逆転しました。
平清盛の妻二位の尼は、「波の下にも都がございます」と幼い安徳天皇を抱いて入水します。
この時、三種の神器も一緒に 壇ノ浦 へと沈んでいきます。
平教経は、敵の大将源義経を道連れにしようと義経の船に乗り移りますが、義経は船から船へと飛び移り逃げてしまいました。(八艘飛び)
道連れにしようとして逃げたという説と、平家と戦っている最中に船から船へと飛び乗って戦ったという説があるようです。
壇ノ浦 の戦いで義経の活躍を描く場合、戦いの中での八艘飛びを描くことが多いと思います。
相撲では、立ち合いの直後に大きく横に飛んで相手をかわす戦法を「八艘飛び」と呼んでいます。
また、ヘイケガニという蟹がいます。甲の模様が人間の怒りの表情に似ていると言われています。
生息地が瀬戸内海や九州沿岸に多いことから、壇ノ浦 の戦いで敗れて海に散った平家の「亡霊が乗り移った」という伝説が生まています。ちなみに、食用ではありません。
腰越状
義経は、平清盛の子・宗盛父子を捕虜として鎌倉に向かいます。
しかし、頼朝は勝手に官位をもらった者は、鎌倉に入ってはならないと命令を出します。
これは、鎌倉殿の推薦で官位をもらうことにしないと、鎌倉殿の権威が落ちてしまうからです。
実際、武名では源義経の方が上です。さらに、後白河法皇からもかわいがられています。
勝手に官位をもらったことを許してしまうと、また源氏同士での戦いになりかねないと考えたようです。
そのため、義経は鎌倉に入れず、腰越で大江広元に宛てて、無実の罪を訴えた書状を書きます。
しかし、許してもらえず京都に引き返すことになります。
これを腰越状といいます。
平家の終焉と義経追討
義経は、京都に引き返す途中、捕虜の平宗盛父子の首を刎ねます。
その地には宗盛の首を洗った「首洗いの池」又の名を「かわず鳴かずの池」があります。
義経自らの元服した「鏡の宿」を汚すのを避けて通り過ぎたと伝えられる。
そして、京都で過ごしている義経に、頼朝の追手が迫ります。
後白河法皇は、義経に請われて、義経に頼朝を討つ命令を出します。
しかし、頼朝の配下が兵を連れてくると、今度は頼朝に義経を討つ命令を出します。
大物浦の難破
義経は頼朝に追われ、九州へ逃げるため船を出します。
しかし、暴風雨で難破し、住吉浦に漂着します。
屋島の戦いでは、暴風雨でもたどり着けたのに、義経の運もここまでだったのかも知れません。
難破したため、配下の兵もいなくなってしまいます。
その後、山伏姿で、吉野山や京都周辺を逃げ廻ることになります。
静御前との別れも、この頃のことのようです。
安宅関
奥州に向かうことにした源義経。
途中、山伏姿に変装した義経たちが、安宅の関を通り抜けようとします。
しかし、関守に止められてしまいます。
潔白を証明するため、弁慶が白紙の勧進帳を読み上げます。勧進帳とは、寺などに寄付をしてもらうために、寄付の目的や寄付をしてくれた人の名前が書いてあるものです。
弁慶の機転で危うく通り抜けそうになりますが、義経に似ているのではと呼び止められます。
弁慶はその疑いを晴らすために、杖を持って、「義経に似ているとは何事か」と打ち据えました。
この時、関守は義経の一行であることを確信しますが、弁慶の主を思う心に打たれ、関の通過を許したというのです。
歌舞伎の演目「勧進帳」で有名なシーンです。
義経の最期
奥州の藤原氏の元にたどり着いた義経。
幼少期の庇護者の藤原秀衡が匿ってくれます。
しかし、秀衡はすぐに亡くなってしまいます。
その後を継いだのが、藤原泰衡です。
泰衡は、義経を匿うことで奥州が頼朝責められることを危惧します。
そのため、頼朝に味方し、高館にあった義経の館を襲います。
急襲を受けた義経は、奮戦虚しく館に火を放ち、妻子とともに持仏堂で自害します。
弁慶の立往生
弁慶は、何本もの矢が体に刺さったまま、高館の前で立ちはだかって死にました。
この話しは、後の創作だとされていますが、義経の物語には必ず出てくる名場面です。
立ったまま死ぬという描写は、いろいろな物語で使われています。
ちなみに、ワンピースの白ひげ(エドワード・ニューゲート)も立ったまま死んでいます。
北へ
義経が平泉で自決したとなっていますが、蝦夷地(北海道)へ渡ったという伝説があります。
日高ピラウトゥリ(平取)に来て、アイヌ民族を守り、判官カムイと呼ばれたというものです。
そして、その後、家臣らとともに大陸に渡ったと伝わっています。
大陸で騎馬民族のチンギス・ハーンになったという伝説もあります。
そういう伝説は、西郷隆盛にもありました。死んでほしくないと思う人たちの気持ちが、そういう伝説を生むようです。
最後に
壇ノ浦 の戦いで滅亡する平家ですが、やはり義経の活躍なくしては語れません。
もし、義経がいなかったら、平家と源氏と奥州で、日本版の三国志になっていた可能性もあります。
さらに、安徳天皇と後鳥羽天皇が両立する南北朝(というか、東西朝?)ができていた可能性があります。
そういう意味で、義経がいたことによって、戦乱の時代が短く済んだともいえると思います。
次回の鎌倉殿の13は、「伝説の幕開け」です。
壇ノ浦 の戦いも含め、義経の活躍に期待したいです。