検非違使左衛門少尉(けびいし さえもん しょうじょう) は、源義経の役職です。
平氏を一ノ谷の戦いで破った義経が、後白河法皇から任命される予定です。
鎌倉時代は、奈良時代の律令制の影響を大きく受けている時代です。これから武士の世の中になると、だんだんと形骸化していきます。
そんな鎌倉初期に義経がついた「検非違使左衛門少尉」とはどういうものだったのでしょうか?
役割
検非違使左衛門少尉 は、検非違使と左衛門と少尉に分けられます。
以下に説明を書いていますが、要するに「京都の治安を守る警察組織で天皇を守る者」というところでしょうか?
検非違使
朝廷は、桓武天皇によって軍事力を事実上放棄していました。
その結果として、京都の治安が悪化したために、警察の組織として検非違使を創設することになりました。
桓武天皇と言えば平氏ですが、桓武天皇は軍事力を持つことで「穢れ」てしまうことを特に恐れていたといいます。
そのため、天皇自ら戦うことをしないように軍事力を放棄してしまったと言われています。
そのため、天皇の子供や孫たちに別姓(平氏や源氏など)を与えて臣籍降下させて、軍事力は外注することにしました。
しかし、その結果、武士と呼ばれる勢力が力を付けることになります。
左衛門
左右衛士府を改称して発足したのが始まりです。
宮城(天皇の住まい)の外郭を警備することが仕事でした。
検非違使庁は当初衛門府内に設置されていて、衛門府官人が兼務していたようです。
左衛門府と右衛門府の2つがありました。
衛門府の仕事と検非違使の仕事は、似ている部分があります。
元々は衛門府にあった検非違使ですが、時代が下るほど一緒に扱われるようになることが多いようです。
少尉
四等官の判官に相当しました。
四等官は、令制の職員の等級で、長官(かみ)・次官(すけ)・判官(じょう)・主典(さかん)の四つの等級の職員で構成されるのが原則でした。
判官は、事務的な処理などの実務をする役目でした。
この「判官」が、義経が名乗る際の「九郎判官義経」の判官です。
鎌倉殿と呼ばれる前の頼朝が「佐」殿と呼ばれていたのは、この次官の等級だったからです。
頼朝との違い
ちなみに、頼朝は「右兵衛権佐」でした。兵衛とは、天皇やその家族の近侍、護衛の役割でした。
兵衛佐や兵衛権佐は、公卿への昇進コースだったようです。
もし、平治の乱で平氏に負けなければ、順当に昇進していたのかもしれません。
衛門は門を守り、兵衛は高貴な人物を守護するので、頼朝の方が格が上な気がしますね。
しかし、六衛府と言って、左右近衛・左右衛門・左右兵衛は同列に扱われていました。
ちなみに、「権」は「仮」という意味で、定員以上に任命する場合は権を付けていました。
例えば、「権中納言」などのように使っていました。
最後に
今の時代でも「社長」や「専務」など、どういう人かを説明するのに役職は重要な要素です。
鎌倉時代ではもっと重要です。それは、役職は天皇から認められた証だからです。
そして、後白河法皇に認められたことが、義経の運命を大きく変えてしまうことになります。
しかし、まだ先の話しです。
来週は木曾義仲の息子、義高がどうなるのか、楽しみです。