藤原秀衡 (ふじわらひでひら)は、奥州(今の東北地方)を事実上治めていました。
鎌倉殿の13人では、義経を養育し、頼朝の背後を脅かす存在として描かれています。
その藤原秀衡とはどんな人物で、朝廷や源義経との関係はどうだったのでしょうか?
奥州藤原氏
前九年・後三年の役で、戦った藤原清衡。
一緒に戦った源氏は、八幡太郎義家と呼ばれる源義家でした。
その清衡、元を辿れば、摂関家の藤原氏の一族だということになっています。
藤原氏が関東へ下り、土着したものだと言われています。
実際に、中尊寺金色堂の遺体の調査をした結果、清衡は東北人ではなく京の人の血をひく人だったと結論付けられたようです。
その清衡は、朝廷や藤原摂関家に砂金や馬などの献上品や貢物をします。その工作の結果、朝廷は藤原氏の事実上の奥州支配を容認することになります。
奥州は、朝廷における政争と無縁な地帯になります。
そして、奥州藤原氏は奥州17万騎と言われた強大な武力と、政治的中立を背景に源平合戦の最中も独自の政権と文化を維持することができました。
清衡の子が基衡です。その基衡の子供が秀衡になります。
義経との関係
鞍馬山で育った義経が、庇護を求めて奥州へやってきます。
これを斡旋したのが、金売り吉次だという説があります。
しかし、実際には義経の母・常盤御前が嫁いだ藤原基成のつてを頼ったのではないかと思います。
とにかく、義経は数年の間、秀衡に養われていました。
当時の奥州・平泉は、京との距離は離れているものの、中国(北宋)との交易が盛んであり、文化水準は高かったと思われます。その文化的影響も、義経に及ぼしているのではないかと思います。
そして、源頼朝が挙兵すると、義経も参陣します。
その後、頼朝と義経との関係に亀裂が走ると、再度義経を奥州で匿うことになります。
義経との関係は、全て秀衡の時代にあったことです。
秀衡は、義経を主人として、子供たちに義経に使えるように遺言を残しています。
しかし、跡を継いだ泰衡は、その遺言を守りませんでした。
藤原秀衡という人
朝廷の評価
当時の右大臣・九条兼実は『玉葉』の中で、秀衡を「奥州の夷狄(北の野蛮人)」と呼んでいました。
朝廷の貴族達は、計り知れない財力と武力を恐れながらも、得体の知れない蛮族と蔑む傾向があったようです。鎖国時代の外国人への扱いと同じような感じでしょうか?
中立性
政治的に朝廷とつながりはああるものの、平氏と源氏との争いには全く関与しませんでした。
そのため、平氏に官位をもらったりしながら、源氏の御曹司を匿ったりすることで、中立を保っていたようです。
以前にも書きましたが、平氏の滅亡が遅ければ、西国の平氏、東国の源氏、奥州の藤原氏の三国志になっていた可能性があります。
そうさせなかった、頼朝が一枚上手だったということです。
遺言
藤原秀衡は、自身の遺言を広く知らせることで、源氏に対して義経と戦うことになるとけん制しました。
そして、源氏との戦いを見据え、軍備を整えていました。
しかし、それがあだとなります。頼朝に義経を匿ったとして、攻撃するための口実を作る結果になってしまいました。
そこで、秀衡の意思をついで、泰衡が義経を総大将に戦っていたら、鎌倉時代はなかったのかも知れません。
実際には、泰衡は頼朝の圧力に屈し、義経を討ち取ります。
しかし、それだけでは済みませんでした。結局、頼朝に攻められ、藤原氏は滅亡してしまいます。
最後に
藤原秀衡 は優秀な人物として描かれることが多いです。
実際、朝廷や源氏とのやり取りは、戦略的で政治的に有能だったように思います。
しかし、そんな秀衡達が築いた奥州の平和は、長くは続きませんでした。
「夏草や 兵どもが 夢のあと」と松尾芭蕉が「奥の細道」で詠んだ平泉の句です。
藤原秀衡と義経、奥州の戦いがどう描かれるのか、楽しみですね。
次は第19回「果たせぬ凱旋」です。
↓大河ドラマにもなった奥州藤原氏の物語。