鎌倉殿の13人(5) 13人は誰か&ネタバレあり-2

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源頼朝の死後、集団指導体制で中心的役割を果たす大江広元。

その13人を紹介していきたいと思います。

今回は2回目ということで、13名のうち4名を紹介したいと思います。

前回紹介の5人はこちら↓

6.三善康信(小林隆)

頼朝との関係

三善康信の母が、源頼朝の乳母(比企尼)の妹です。

その縁で流人として伊豆国にあった頼朝に、京都の情勢を知らせていました。

そして、以仁王の挙兵の2ヶ月後、諸国に源氏追討の計画が出されていることを知らせたのも、三善康信でした。

その知らせが、頼朝の挙兵に大きな役割を果たしたことはドラマにも描かれていました。

鎌倉幕府での役割

頼朝から鎌倉に呼ばれた三善康信は、鎌倉に住んで武家の政務の補佐をするよう依頼されます。

公文所の建物が新築されると、大江広元がその長官となり、三好康信は初代問注所の別当(長官)として裁判事務の責任者となりました。

承久の乱に際しては、病身の身で会議に参加し即時出兵論を支持しました。

その後、承久の乱後に病気で亡くなってしまいました。

ドラマの中では、まだ京都にいて、あまり出演するシーンが多くありません。

今後、事務方として、鎌倉幕府を支えることになります。



7.三浦義澄(佐藤B作)

ドラマでも第1回から登場し、北条時政といいコンビになっています。

石橋山の戦いでは、悪天候のため参戦できず、頼朝の敗戦を知ります。

平家方だった畠山重忠との間で戦になった際には、父・義明を討ち死にさせてしまう結果となりました。

その後、房総半島へ渡ってきた頼朝軍と合流し、頼朝に帰服した重忠のことを許し、共に鎌倉に入っています。

平家側についていた妻の父である伊東祐親が捕らえられた時は、義澄がその身を預かることになります。

義澄は千葉常胤、上総介広常、土肥実平らと共に頼朝の宿老となります。

その後、一ノ谷の戦いや壇ノ浦の戦い、奥州合戦に参戦して武功を挙げる活躍をします。

梶原景時の変で梶原景時の鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた後、病気で亡くなっています。

当初、13人には、息子の三浦義村が入っていると思っていました。

しかし、当時としては高齢でしたが、一族の長は義澄だったので、三浦から代表して入ったようです。



8.大江広元(栗原英雄)

源頼朝との関係

大江広元の兄・中原親能は源頼朝と親しい関係で、早くから京を離れて頼朝に従っています。

中原親能は源義経の軍勢と共に上洛し、頼朝の代官として京都の貴族との交渉で活躍していました。

兄と苗字が違いますが、中原広季が実父で、大江維光が養父だったという説があります。

ただ、諸説あるので、実父と養父が逆という説もあります。

とにかく、広元も中原と名乗っていたようですが、途中で大江に変更しました。

兄の縁で、大江広元も頼朝の元へ参じて、公文所の別当となります。

頼朝が守護・地頭を設置したのも広元の献策によるものであるといいます。

本来は朝廷が持っている守護や地頭の任命権を鎌倉幕府が持つことで、名だけなく実力も朝廷より上回ることになりました。

頼朝の死後

承久の乱の際は嫡男・親広が後鳥羽上皇側についたため、親と子で戦うことになります。

広元はあくまで鎌倉方に立って主戦論を唱えた北条政子に協調し、朝廷との一戦には慎重な御家人たちを鼓舞して幕府軍を勝利に導いたと言われています。

広元の存在は。単に鎌倉における京都との折衝役だけではありませんでした。

政策の決定や施行にも影響力を行使し得る重要な地位だったようです。

なお、頼朝の死後、名目では将軍に次ぐ存在として遇されていたようです。

大江広元の子孫は、中国地方の毛利氏(のちの毛利元就)の始祖となっています。



9.足立遠元(大野泰広)

元々は、源頼朝の父・源義朝に従い、平治の乱で戦っています。

源頼朝が挙兵する際には、挙兵するよう頼朝に声をかけられていたようです。

頼朝が下総国から武蔵国に入った際に頼朝を迎えました。

公文所が設置されると、寄人の1人に選ばれたます。

奥州合戦にも参戦し、勲功として左衛門尉に任ぜられています。

ただ、その後の消息はわかりません。

なお、娘たちを京都の公家や畠山重忠、北条時房に嫁がせています。

坂東武士でありながら公文所寄人に選ばれているところを見ると、文官的素養を持つ人物だったようです。



今後の展開

次回予告はこちら

せっかく富士川の戦いで、平氏の追討軍を破ったのですが、追撃することができませんでした。

というのも、近年飢饉が発生していて、兵糧を確保できなかったようです。

兵糧を確保するのは、遠征軍にとっては重要なことです。

この後の戦でも、兵糧がなく兵が集まらないことが出てくると思います。

そういった状況も踏まえて、論功行賞を行い、関東を盤石なものとすることになります。

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