征夷大将軍 鎌倉殿の13人(16)

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征夷大将軍 は源氏の最高位に位置付けられています。

その発端は源頼朝の受任からでした。そういう意味でも、頼朝はすごい人だったのかも知れません。

征夷大将軍というのはどういう役職名のか見ていきたいと思います。

征夷

もともと、征夷には中華思想の「四夷しい(東夷・西戎・南蛮・北狄)」のうちの東夷とういを討伐するという意味がありました。

中華思想を簡単に言うと、自分の国が中心で文明国、周りの国は野蛮な国という思想です。その野蛮な国の中で、東に位置しているのが、東夷です。

日本では、今の東北地方に住んでいる蝦夷えみしと呼ばれる人たちがいました。奈良時代の制定された大宝律令の外にいる人達、朝廷に従わない人達のことを差別的にそう呼んでいたのです。

蝦夷は毛人とも呼ばれていたようです。体毛が多い人達だったという説もあります。他には、神武東征で負けて逃げた人達が蝦夷になってたと言う説もあいます。

有名な征夷大将軍

有名な征夷大将軍と言えば、坂上さかのうえの田村麻呂たむらまろでしょうか。

奈良時代から平安時代の初期に活躍した武官です。元々は中国から渡来した一族だったようです。

坂上田村麻呂は、大伴おおともの弟麻呂おとまろの副将軍でした。その後、征夷大将軍に昇格しています。坂上田村麻呂は、胆沢たんざわの蝦夷の阿弖流為あてるいを下して京へ連れ帰りました。そして、東北地方全土を平定したという将軍です。教科書にも出てきていました。

娘の春子は、桓武天皇の妃となりました。葛井親王を産み、血筋は清和源氏とその分流へ受け継がれていくことになります。清和源氏は、源頼朝の家系です。

源頼朝の征夷大将軍任官

奥州合戦が終わると、源頼朝は上洛します。そこで、後白河法皇と面会します。

その時、右近衛大将に任命されます。以前は右兵衛権佐うひょうえごんのすけでしたから、ちょっと昇進でしょうか。しかし、「近衛」は京にいて、護衛するのが任務です。鎌倉に本拠地を置きたいと思っていた頼朝は、すぐに返上してしまいます。

源義仲が任命された「征東せいとう大将軍」は、武士を統率して地方の争乱を鎮圧する地位です。さらに、奥州藤原氏の「鎮守府ちんじゅふ将軍」は、東国に独立の勢力圏を確保できる地位です。源頼朝は、義仲や奥州藤原氏のような役職が欲しかったようです。

その後、後白河法皇が崩御されると、源頼朝は「大将軍」に任じて欲しいと朝廷へ働きかけます。朝廷で検討したのは「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の4つの候補でした。

しかし、平宗盛の任官した「惣官」や、義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられます。

また、「上将軍」も日本では先例がありませんでした。

そこで、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして、頼朝を「征夷大将軍」に任官することにしたと伝えられています。

征夷大将軍のその後

三代目の源実朝の時代になると、武家の棟梁は征夷大将軍だという認識が広まっていたようです。

頼朝の直系の血筋が絶えると、頼朝の妹の血筋の摂関家から、2歳の三寅を鎌倉殿に迎えて、北条政子が後見しました。摂家せっけ将軍と呼ばれる、後の藤原頼経よりつねです。征夷大将軍になりますが、傀儡の将軍でした。

その後は、皇族が将軍として迎えられ、いわゆる「みや将軍」となりましたが、やはり傀儡の将軍でした。

鎌倉時代が終わると、足利尊氏が征夷大将軍となり、室町幕府を開きます。

その後、徳川家康が江戸幕府を開きます。

そして幕末、徳川慶喜は征夷大将軍を辞任し、大政奉還を行います。直後に「王政復古の大号令」で征夷大将軍職を含む従来の官職の廃絶が行われてました。

最後に

実質的に源頼朝は、東国に朝廷の影響を受けない独立した領土を持っています。

そして、将軍宣下がされることで、名実共に武家の棟梁となります。

鎌倉殿の13人の物語は、やっと半分ぐらいでしょうか。これからも、目が離せません。

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