源平合戦で描かれなかった人 がいます。
特に有名な所で言うと、那須与一、熊谷直実、平敦盛でしょうか。
登場するのは軍記ものの物語です。それは、ドラマティックにするために必要な人物達であり、実際の活躍とは異なるのかも知れません。
しかし、あまりにも有名ですで、ちょっと紹介しておきます。
那須与一なすのよいち
人物像
「この世をば 我が世とぞ思う望月の 欠けたることのなしと思えば」
で、お馴染みの藤原道長の子孫だと言われています。
下野国那須郡に下向し土着して、那須姓を名乗ったようです。
しかし、「吾妻鏡」などの資料には名前はなく、平家物語などの軍記ものにしか名前は出てきません。
そのため、実在はしていたのでしょうが、物語の中の話にどれだけ信ぴょう性があるかと言われると疑問が残ります。
ただ、弓の名手としては有名だったのではないかと思います。
最大の見せ場
源平合戦には、源義経軍として参戦しています。
屋島の戦いでは、平氏方の軍船に掲げられた扇の的を射落とす功績を挙げています。
その扇を打ち落とせなければ、源氏の武勇は大したことないと平氏側勇気づけた可能性もあります。
しかし、見事打ち落とし、頼朝より5カ国に荘園を賜ったと言います。
与一は十一男でしたが、兄達はみな平氏側についていたため、那須氏の家督を継ぐこととになりました。
信濃など各地に逃亡していた兄達を許し、得た領土を分け与え、那須氏発展の基礎を築いたとされています。
熊谷直実くまがいなおざね
人物像
熊谷氏は桓武平氏の子孫だと言われていますが、はっきりとした記録は残っていません。
しかし、熊谷一族は、平氏に従っていました。そのため、平氏の末裔だというのも、間違いではないのかもしれません。
ドラマにも出てきていた、平氏方の大庭景親に従っていたようです。
しかし、源頼朝が挙兵した石橋山の戦いでは、頼朝に臣従して御家人となりました。
上総介広常が侮辱されて切り殺したシーンが印象的だった佐竹氏征伐。そこで、熊谷直実は大功を立ててます。
そして、一ノ谷の戦いに参陣します。
この戦いでは、正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、源義経の奇襲部隊に所属ししていたようです。
鵯越の逆落としでは、息子・直家と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入するほどの活躍でした。
しかし、平氏の武者に囲まれ、危なく討ち死にしそうになったと言います。
最大の見せ場
一ノ谷の合戦では、対象首を探し求めていた直実が、波際を逃げようとしていた平家の騎馬武者を見つけます。
「卑怯にも敵に後ろを見せるのか」
そう呼び止め、一騎討ちを挑みました。直実が掴んで、若武者を馬から落とし、首を取ろうとします。
しかし、その若武者は自分の子・直家ぐらいの年齢の少年でした。直実は名乗りますが、若武者は「首を取って聞けば、誰かが知っているだろう」と言います。
立派な武士だと感動した直実は、若武者を逃がそうとします。ただ、味方の兵が近くにいて、逃げ切れないかも知れません。他の者に首をはねられるぐらいならと、直実は自分で首をはね、死後に供養することを誓いました。
のちにその首は、清盛の甥・平敦盛と判明します。17歳でした。
討ち死にの折に帯びていた笛「小枝」は、笛の名手として知られた敦盛の祖父・忠盛が鳥羽上皇から賜ったものでした。
このことは、直実に大きく影を落とし、のちに出家することとなります。
平たいらの敦盛あつもり
平清盛の弟・経盛の子供です。
平家一門として17歳で一ノ谷の戦いに参加します。
源氏側の奇襲を受け、平家側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとします。
その時、熊谷直実に呼び止められ一騎打ちとなります。そして、首をはねられました。
敦盛の持っていた笛は、敦盛の父・平経盛の元に送り届けられたようです。
そして、この場面は、のちに能『敦盛』、幸若舞『敦盛』、歌舞伎『一谷嫩軍記』などの題材となりました。
織田信長の好んだ歌「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け滅せぬもののあるべきか 」は幸若舞『敦盛』の一節です。
最後に
源平合戦は終わり、奥州合戦になります。
しかし、奥州合戦はあっという間に終わってしまうのではないかと思います。
そして、源頼朝と後白河法皇との会談があります。
守護地頭をおくことで、実質的に支配をしている頼朝ですが、官位を授かります。
「権大納言、右近衛大将」です。
「幕府」とは、本来は近衛大将の中国名です。そのため、右近衛大将就任で、鎌倉幕府の成立とする見方もああります。
対外的な戦が終わり、これからは幕府内の権力闘争になって行くのではないかと思います。
楽しみです。