源頼家 は、源頼朝の子で、生まれながらの「鎌倉殿」です。源頼朝の死後、二代将軍となりました。
その短すぎる生涯をまとめてみました。
鎌倉殿の13人公式HP
源頼家よりいえの政治的後ろ盾
頼家は、生まれると比企氏に養育されました。これはドラマでも描かれている通りです。ドラマでは、比企能員が比企氏の代表です。
そして、梶原景時も補佐役として、頼家の後ろ盾となっていたようです。ドラマでも将軍職を受ける前に一度は断っていました。そうするよう進言したのが、梶原景時でした。
これは、源頼朝が生前に指名した人事です。頼朝は、政子の実家の北条氏ではなく、比企氏を重用しようとしていました。これは、北条氏の力が強くなりすぎることを警戒したものではないかと思います。
その証拠として、頼朝の次男・実朝は、北条氏が養育しています。二人の子を別の一族を後ろ盾にさせています。そうすることで、一方の一族の影響力が強くなりすぎないことを狙ったのだと思います。
比企氏の比企能員も梶原景時も、十三人の合議制のメンバーとなっています。
源頼家のセンス
頼朝が亡くなり、頼家が家督を継いだ時、頼家は18歳でした。
北条氏が編纂した「吾妻鑑」では、頼家は気性が激しく、政治的には無能であったように書かれています。しかし、これは後の北条氏が実権を握ったため、そう書かれたのではないかと思います。
実際に大きな失政もなかったようですし、若い頼家をサポートする形で13人の合議制になったようです。
しかし、頼家の失政があったとすれば、梶原景時を追放してしまった事でしょうか。
景時に反発する御家人66名による「景時糾弾の連判状」が頼家に提出されます。頼家は景時に申し開きするように求めます。しかし、景時は何も言わず自分の所領に引き上げてしまいます。そして、後に景時が鎌倉に戻っても、頼家は仕事に復帰させることができませんでした。
これは、景時が頼朝、頼家の二代に渡って重用され、それをいいことに横暴であったことが原因と言われています。
しかし、実際には、「頼家を除いて、実朝を将軍にする陰謀」があることを頼家に報告した景時。その景時が邪魔になった北条氏が、景時を追放するために他の御家人を扇動したというのが本当のようです。実際、景時がいなくなってから3年後に頼家は追放され、実朝が将軍になっています。
ドラマでも、頼朝の時代から諜報活動が得意であるように描かれていました。その結果、他の武士たちに恨まれることも多かったのではないかと思います。そこを北条氏に利用され、頼家は後ろ盾を無くしてしまったのでした。
源頼家の最後
梶原景時が去った後、頼家は実朝の乳母・阿波局(北条政子の妹)の夫・阿野全成を謀反の罪で逮捕し、殺害します。さらに阿波局を逮捕しようとしますが、北条政子が引き渡しを拒否するということがありました。
これは、比企氏と北条氏の対立の影響によるものです。
そして、体調を崩している頼家の代わりに実朝を将軍にしようとする北条氏。邪魔な比企氏を騙して、滅亡させてしまいます。
体調が戻った頼家は、比企氏滅亡と実朝に将軍職を譲る話が進んでいることに激怒します。しかし、頼家の後ろ盾はいなくなってしまっています。誰も命令を聞くことはありませんでした。
北条政子も頼家を排除することに協力し、頼家は修善寺に幽閉されてしまいます。そして、北条氏が差し向けた刺客の手により、殺害されてしまいました。享年21歳でした。ドラマでは、北条義時の配下になった「善児」が頼家を殺害する、かも知れません。
感想
若くして鎌倉殿になった源頼家ですが、自分の実力を発揮する前に亡くなってしまいました。
梶原景時が鎌倉にいたら、北条氏が比企氏を滅亡させることができなかったのではないかと思います。
そして、阿野全成を捕まえた時に、北条氏も一緒に処罰できていたなら、状況は変わっていたかも知れません。
結局、北条時政であり、北条義時が一枚も二枚も上だったということでしょう。
そう考えると、頼家が若くして将軍職を継ぐきっかけとなった頼朝の死も、北条氏による陰謀だったのではないかと疑ってしまいます。
最後に
ついに13人の合議制がスタートなる次回。どういう風に描かれるのか楽しみです。
やはり、頼家は無能で、激しい気性で独裁的に描かれるのでしょうか?
そして、梶原景時はどうやって追放されるのかも楽しみです
まだまだ目が離せません。