頼朝の死因 は、諸説あります。
鎌倉殿の13人の第25回「天が望んだ男」では、落馬をメインとしていました。
実際には、落成供養があったのが12月27日で、亡くなったのは翌年1月13日になっています。事故(事件?)から17日間ほどは生きていたことになります。
諸説ある死因について、説明してみたいと思います。
死因1:落馬
稲毛重成(畠山重忠の従兄弟)が亡き妻(北条時政の娘)のために相模川に橋をかけ、その橋の落成供養が行われました。
それに出席した頼朝は、帰りの道中で落馬したということになっています。ドラマの中でも、鈴の音が聞こえ、突然落馬したように描かれていました。
しかし、その話が『吾妻鏡』に登場するのは、頼朝の死から13年も後のことです。
その橋が壊れて地元民が困っていましたが、頼朝の落馬があって縁起が悪いと、ずっと放置されていたという内容で記載されています。死去した当時の『吾妻鏡』には、橋供養から葬儀まで、頼朝の死に関する記載が全くありません。
また、『吾妻鏡』に記されているのは頼朝が落馬してから間もなく亡くなったということで、必ずしも落馬が原因で死亡したとは書かれていません。
なお、死因と落馬の因果関係によって解釈は異なります。脳卒中などがおきて、落馬したことが考えられます。また、落馬自体が原因であれば、落馬による頭部への損傷が死因になったと考えられます。
『吾妻鏡』に書かれていることから落馬が原因のように伝わっていますが、ただの落馬ではなかった可能性があります。
死因2:糖尿病説
近衛家実の日記『猪隈関白記』の中で、頼朝の死因について「飲水の病」と書かれています。これは、水を欲しがる病のことで、糖尿病だと言われています。
ドラマの中では、「のどが渇いた」と言った頼朝に北条義時が水筒を渡すシーンが描かれていました。
しかし、糖尿病は直接の死因となる病気ではありません。合併症が死因となる病気ですので、糖尿病で亡くなったとは考えにくいです。
死因3:尿崩症説
尿崩症は、腎臓でできた尿を十分に濃縮することができず、希釈された多量の尿が出る病気です。
落馬で脳を損傷して、尿崩症を起こしたという説です。この病気では尿の量が急増して水を大量に摂取するようになります。それが、「飲水の病」ようになります。
水を大量に飲み、尿を大量に排出するため、血中のナトリウム濃度が低下します。そのため、適切な治療法がない12世紀では、死に至る可能性が高いという説です。
ただ、落馬から17日間で死に至るかどうかと考えると、もう少し時間がかかるのではないかと思います。
死因4:亡霊説
南北朝時代に成立した歴史書『保暦間記』に記されている説です。
当時は亡霊や祟りが深く信じられている時代であり、信心深い頼朝には義経や安徳天皇の亡霊が見えたのであろうと言ものです。
当時に起きたことを後年になって書かれる場合もあるものの、亡霊を見たことが死因とするのは無理があるように思います。亡霊を見て、病に倒れて、その後に亡くなったというならわかります。
そのため、脳の病気で意識の混濁があったり、いないものを見たということはあるとは思いますが、死因とするのには難しいと思います。
死因5:溺死説
頼朝の死因を伝える史料には、「飲水の病」「相模川橋供養」「水神の祟り」「安徳天皇の霊」など、水を連想させることが多く書かれています。
また、相模川河口付近は「馬入川」とも呼ばれています。頼朝の跨った馬が突然暴れて川に入り、落馬に至ったことに由来すると伝わっています。
ただ、溺死にしても、落成法要から17日間生きていたことを考えると、死因とは考えにくいのかなと思います。
死因6:暗殺説
『吾妻鏡』には、落成法要から頼朝が亡くなるまで、記述がありません。『吾妻鏡』は北条氏が編纂したものです。そのため、北条氏が暗殺したとする説があります。
北条氏に水銀を飲まされて死んだと言う説は、北条氏が元々住んでいた伊豆では、水銀が産出されていることから出た説だと思われます。
これについては、可能性はあると思います。北条政子は頼朝の子を産んでいて、二代将軍になる可能性が高かった訳です。頼朝が亡くなった後、実際に政子の子の頼家が将軍になりました。
比企氏との関係はあるものの、頼朝よりも子供の方が扱いやすいと考えたとしても、おかしくはありません。実際、比企氏は頼家の乳母でした。ので、比企氏の影響が北条氏より大きくなってしまいました。
個人的見解
それぞれの説について、まとめてみました。その結果、2つの説が有力ではないかと思っています。
1.馬の暴走で落馬し、ケガを負って死亡
突然馬が暴走して、相模川に入ってしまい、振り落とされた頼朝が落ちた際にケガをした。可能性としては十分、あると思います。
相模川河口付近を馬入川と呼ぶのは、地元で「頼朝の馬が相模川に入った」という事実が伝承されたものかもしれません。文献は書き換えることはできますが、伝承はあったことが伝わるものです。そういう意味で、可能性があるのではないかと思います。
2.暗殺
頼朝死後の歴史を見ると、北条氏による誅殺、暗殺が目に付きます。
朝廷に近づき、平氏のように娘を入内させ、外祖父となろうとした頼朝。東国で独立したい武士達とは、方向性が違ってきています。そのため、頼朝が不要になった北条氏が暗殺したということも考えられます。
先ほども触れましたが、頼朝がいなくなれば、北条政子の子が鎌倉殿になるはずです。そちらの方が都合がいいと考えてもおかしくはありません。
暗殺の道具が水銀だったとした場合、中毒の症状は「よだれをたらす、おう吐、腹痛、下痢、頭痛、悪寒、しびれ、めまい、視覚・聴覚異常」があげられます。
めまいや視覚異常があった場合、馬に乗っている時に症状が出ると、落馬してもおかしくはありません。
最後に
第26回「悲しむ前に」では、落馬後の状況が描かれるかも知れません。
そして、鎌倉殿が頼家になり、ついに13人の合議制になります。
しかし、混乱は混乱を呼び、血を血で洗う権力闘争が繰り広げられます。
まだまだ目が離せません。